持ちつ持たれつ
誰かから何か物をもらったり世話になったりすると、嬉しいと思う気持ちの一方で、
ちょっと負担に思うことがある。「何か返さなくては」と。
『借りの哲学』(ナタリー・サルトゥー・ラジュ著、高野優監訳、小林重裕訳、太田出版)は、そんな心理を《借り》という視点から論じている。
筆者は哲学について門外漢だが、読みやすくとても興味深い内容。
最初の章で、哲学者アウグスティヌスの言葉を引用している。
「私たちの持っているもので、人から受けていないものがあるだろうか?」(P18)
現代社会において、自立した人間、他人に迷惑をかけない人間が理想のように言われる。
人の助けを借りずに、自分のことは自分でする人間をセルフ・メイドマンと呼ぶ。
しかし著者は、《借り》の無い人間なんて存在しないと指摘する。
人は皆、《借り》を背負って生まれてくる。子供のうちは特に、誰かの世話にならなくては生きていけない。また大人になっても、すべてのことをひとりでできるわけではないので、誰かの助けを借りる必要がある。だが、もちろん、それでかまわない。《借り》があると認めることは、自分の力ではできないことがあると、率直に認めることなのだ。(P81)
つまり、セルフ・メイドマンの「自分は誰からも《借り》を受けずに生きている」という考えは幻想であると。
資本主義が《借り》を《負債》に変えることに成功した結果、人々はある意味で、社会のしがらみから自由になった。だが、それと同時に血縁や地縁を通じて受け継がれてきた「誰かに何かを与え、与えられた誰かがその《借り》を返す」という《借り》のシステムを失うことになった。それはとりもなおさず、「人間関係」を失うということである。(P71)
そして著者は、資本主義が排除しようとした《借り》の概念を復活させることを提唱する。
私たちがしなければならないことは、《借り》は《借り》として残したまま、そこに《贈与》の概念を導入し、「等価交換の経済」を社会システムの最上位に置くのではない、別の社会システムをつくることである。(P151)
筆者は、パソコンが苦手なので、このブログは全部友人に作ってもらったし、
自動車の運転もできないのでいつも誰かに乗せてもらっている。
「自分はダメだなぁ」と思うことがあるが、何か自分にできることもあるはず。
得意不得意人それぞれ。持ちつ持たれつ、また、迷惑をかけたりかけられたりしながら生きている。
それでいいじゃないか。
そもそも、誰からの助けも借りず、誰も助けずに生きる人生があるとすれば、
それは自立よりもむしろ孤立である。
誰かから何かを貰ったり世話になったら、感謝する。
そして何かを返す。といっても負担に思う必要はない。
同じ価値のものでなくてもいい。
直接、その人に返せない場合は、別の誰かに返せばいい。
そういう連鎖のなかで生きていく。
そんな風に思うと、ちょっと気持ちが軽くなる気がした。
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